사용자:Tsunami/작업장3
고베 외국인 거류지(일본어: 神戸外国人居留地)는 안세이 5개국 조약에 따라 1868년 1월 1일부터 1899년 7월 16일까지, 효고 항으로부터 약 3.5km 동쪽에 위치한[1] 고베 촌(現 효고현 고베시 주오구)에 설치되었던 외국인 거류지이다. 고베 거류지(일본어: 神戸居留地) 라고도 한다.
동쪽으로는 (구 이쿠다 강(生田川) (현 플라워로드), 서쪽으로는 고이 강(鯉川) (현 고이가와스지(鯉川筋)) 남쪽으로는 바다, 북쪽으로는 사이고쿠가이도(西国街道) (현 하나토케이센(花時計線))로 둘러싸인[2]넓이 약 7만 8000평[3]의 구역이 합리적인 도시 계획에 따라 개발 되어,〈동양에 있는 거류지 중 가장 잘 설계되었다〉라고 평가 받았다.[4] 행정권과 재정권 등의 치외법권이 인정되어, 거류하는 외국인을 중심으로 조직된 자치기구에 따라 운영되었다. 운영은 수월히 행해졌고, 일본 측과 외국 측의 관계도 대체로 양호하였다고 평가되고 있다.[5]무역의 거점, 서양 문화의 들목으로서 번창해, 주변 지역에 경제적・문화적 영향을 주었다.[6]
※본 문서에서는 필요에 따라 거류지 주변의 일정한 구역(잡거지・산책 구역)이나, 거류지 반환 이후에 관해서도 기술한다.
역사
편집효고 개항
편집1858년 7월 29일, 에도 막부는 미국과 미일수호통상조약을 체결하였다. 막부는 위 조약의 제 6조에 따라, 일본에의 미국의 영사재판권을 인정하였고, 제 3조에 따라 1863년 1월 1일 효고(효고항, 과거의 오오와다노토마리(大輪田泊))를 개항하였으며, 외국인의 거주・경제 활동을 위해 대여하는 일정한 지구(외국인 거류지)를 설치하기로 약속하였다. 막부는 이윽고 네덜란드・러시아・영국・프랑스와도 같은 내용의 조약(안세이 5개국 조약)을 체결하였으나[7] 이 조약들에 관하여 천황의 칙허를 얻지 못하였기에, 여러 외국과 교섭을 한 결과, 효고 개항의 기일을 5년 늦추어 1868년 1월 1일에 행하기로 하였다.[8]조정측은 어소가 있는 교토와 가까운 효고를 개항하는 것에 난색을 표했고,[9] 1865년 12월 22일 안세이 5개국 조약에 대한 칙허를 내린 뒤에도 개항은 허가하려 하지 않아,[10]이미 연기된 개항 예정일을 약 반년이나 끌어 1867년 6월 26일이 되어서야 겨우 개항에 대한 칙허가 내려졌다.[11][12][† 1]
막부는 칙허를 받기 전부터 효고 항에 대한 교섭을 여러 나라와 하고 있었기에, 1867년 5월 16일 영국・미국・프랑스와의 사이에서,〈효고 항과 오사카에 외국인 거류지를 정하기를 결정〉(효고 오사카 규정서)하기로 규정서를 체결했다.[14]위 결정의 제1조는〈일본 정부에 있어 조약이 성사되면, 각 국의 사람들의 효고에의 거류지를 고베마치(神戸町)(고베 촌)와 이쿠다 강의 사이로 정하며…〉라고 규정되어,[1][15]효고 항에서 동쪽으로 약 3.5km에 위치하는 고베마치에 거류지가 마련되었다.[1] 그리고 이에 동반하여, 고베 촌의 해안에 건립된 새로운 항구가 개방되었다.(새로운 항구는 1892년 칙령(勅令)에 따라 고베 항이라 이름이 붙여졌다.[16])[1]
〈효고 개항〉에서 효고 항이 아닌 후에 지어진 고베 항이 개항되게 된 이유와 경위를 나타내고 있는 자료는 존재하지 않지만,[1] 여러 추측이 존재한다. 구스모토 도시오(楠本利夫)《증보 국제도시 고베의 계보》에서는 에도 막부 측이 외국인을 경원하는 주민감정[† 2]을 고려하여, 충돌이 일어나지 않게 하려는 배려로, 이미 항구로서 번영하여(효고 항은 당시 오사카의 외항(外港)으로 기능하고 있어, 상거래가 성황하고 있는 항구였다.) 사람들의 왕래가 잦은 효고 항의 개방을 피하려 했다고 추측하고 있다.[18][† 3] 또한《新修神戸市史 歴史編3》및《増補 国際都市神戸の系譜》에서는 인구가 많은 효고 항 주변보다는 고베 촌이 용지의 확보가 용이하고 [† 4] 1865년 폐쇄된 고베 해군 훈련소의 시설을 활용할 수 있었기 때문이라 추측하고 있다.[1] 더욱이《増補 国際都市神戸の系譜》는 1865년 11월 효고 항 부근의 해역을 측량한 영국 공사 해리 파크스의 수행원이 남긴 기록 중〈효고의 구 시내에서 조금 떨어진 곳에 있었던 거류지의 예정지〉에 대해 “수심도 충분히 깊고, 천연 정박지로 쓸 수 있는 훌륭한 만(湾)에 인접해 있다.”고 평가한 것을 바탕으로,〈효고의 구 시내에서 조금 떨어진 곳에 있었던 거류지의 예정지〉는 고베 촌을 가리키고 있고 외국 측도 효고 항 보다 고베 촌이 개항장으로 적합하다는 인식을 가지고 있었다고 추측하고 있다.[21] 또한 고베 항 일대는 1892년 확대 되어 효고 항을 아우르게 되었다.[22][23]
거류지는 고베 촌 내에서 동쪽으로는 구 이쿠다 강(生田川) (현 플라워로드), 서쪽으로는 고이 강(鯉川) (현 고이가와스지(鯉川筋)), 남쪽은 바다로 삼면이 강과 바다로 둘러 쌓인(북쪽은 사이고쿠 가도(西国街道)[† 5](현 하나토케이센(花時計線))에 접해 있었다.)[2][27] 넓이 약 7만 8천평[3]의 토지에 설치하기로 결정했다.《新修神戸市史》에서는 이 선정에 대해〈외국인과 일본인의 접촉을 극구 피하게 해주려고 한 막부의 배려가 담겨 있다〉고 설명하고 있다.[28]
居留地の造成と運営
편집江戸幕府は柴田剛中を兵庫奉行に任命して居留地と港の造成に当たらせた。柴田は神戸村に着任すると直ちに造成の指揮を執ったが、開港日である1868年1月1日(慶応3年12月7日)までに完成したのは運上所(税関)の施設と3か所の埠頭、3棟の倉庫のみであった[29][30]。この時期は江戸幕府から明治政府への政権移行期に当たり、1867年11月9日(慶応3年10月14日)には大政奉還が行われた。 当初、兵庫開港に関する事務は引き続き江戸幕府が担当することとされた[31]が、開港から2日後の1月3日(慶応3年12月9日)に王政復古の大号令が発令され、同月27日(慶応4年1月3日)に起こった鳥羽・伏見の戦いで江戸幕府軍が敗れ徳川慶喜が大阪城から江戸へ退却すると柴田剛中も江戸へ引き上げ、工事は中断を余儀なくされた[32][33]。残る工事は明治政府の下で行われ[34][35]、道路や溝渠の工事が終わり南北8本・東西5本の街路からなる碁盤の目状の区画が完成したのは1872年(明治4年/5年)頃のことである[36]。
外国人による土地所有を認めない方針を採る明治政府は、居留地内の土地を永代借地(無期限の借地。事実上の所有)として外国人に貸与することとし[37]、被貸与者は競売[† 6]によって決定された[40][43]。永代借地権は居留地返還後も、1942年(昭和17年)まで存続した(後述)。競売代金の約半分は政府側が収納し、残りは自治行政を行うための最高議決機関[44]として政府が認めた居留地会議の運営費として積み立てられた[43]。居留地住民による自治行政は居留地が廃止されるまで続いた[45]。約30年にわたり居留地は円滑に運営され、日本側と外国側との関係も概ね良好であったと評価されている[5]。ただし日本人は居留地内での居住が禁止され[46]、立ち入りも制限された[47]。
なお居留地造成の遅れを受け、明治政府は区域を東は(旧)生田川、西は宇治川、南は居留地南の海岸、北は山辺(山麓)と限定した上で、外国人が居留地外に居住することを認めた[48][49]。この区域を雑居地といい、居留地返還まで存続した[50](詳細については後述)。
居留地および周辺の発展
편집開港後居留地は合理的な都市計画の下で整備され[4]、前述のように1872年(明治4年/5年)頃には道路や溝渠の工事が完了し[36]、土地の競売も1873年(明治6年)2月7日までに終わった[38][39]。居留地の都市計画は、「神戸は東洋における居留地としてもっともよく設計されている」と評された(1871年4月17日付の英字新聞「The Far East」)[4]。一方、周辺地域は必ずしも計画的に開発されたわけではなかった。居留地の東北には外国人が経営する工場が、西には会社や銀行が開設され、北西には清国人街が形成されるといった具合にある程度傾向を帯びながらも、居留地の発展とともに周辺地域の人口が増加し、雑然と市街地が形成されていった[51]。市街地の規模は、1890年代初めには兵庫津周辺と一続きとなるまでに拡大し[52]、居留地が置かれた神戸村の人口は開港当時約3600人であったが、周辺の村との合併を経て1889年(明治22年)に神戸市が誕生した際には約13万4700人にまで増加した[53]。なお居留外国人数は1871年(明治3年/4年)の時点で400人余り(イギリス・ドイツ・フランス・オランダ・清の5か国)であったが、1890年には2000人を超えている(#居留外国人数を参照)。
開港当初は設備が貧弱で、自然海岸に近かった[54][55]兵庫(神戸)港の整備も進められた。1868年4月から7月(明治元年4月から5月)にかけて(旧)生田川・宇治川間の海岸に改めて4つの埠頭が建設され[51]、さらに明治4年(1871年/1872年)に防波護岸・埠頭拡張の工事が行われた[54]。また、1871年4月29日(明治4年3月10日)から同年7月26日(明治4年6月9日)にかけて行われた(旧)生田川の付け替え工事(後述)は、居留地周辺の水害を防ぐだけでなく、港の中心部への土砂の流入を防ぐ効果ももたらした。後に「天然の良港」と呼ばれる神戸港の基盤はこうして整えられていった[56]。なお、神戸港が日本有数の国際貿易港として飛躍するきっかけになったと評価されている大規模な修築事業(第一期修築工事)は、居留地返還後の1907年(明治39年)に決定し、翌1908年(明治40年)に起工した[57]。
返還
편집明治政府は、江戸幕府が締結した安政五カ国条約の改正を目指す中で欧化主義政策を採った。その一環として東京の鹿鳴館では舞踏会が盛んに催されたが、神戸でも盛んに開催された。そんな中、1887年(明治20年)には「神戸未曾有の大夜会」と称し、大阪府と兵庫県の知事主催による舞踏会が神戸レガッタアンドアスレチッククラブ(KRAC。後述)の体育館で催された[58][† 7]。
1894年(明治27年)、明治政府はイギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、領事裁判権の撤廃と外国人居留地の返還を実現した。政府はその後同じ内容の条約をアメリカ、フランスなど14ヵ国と締結した。これら一連の条約は1899年(明治32年)7月17日に発効し、同日をもって神戸外国人居留地は日本側に返還された[60][61]。これにより居留地は神戸市へ編入され、外国人に認められていた行政権と財政権は解消し、日本人が自由に立ち入り、居住することが可能となった。居留地内にあった警察隊(居留地会議によって組織)は廃止され、消防隊(居留地住民が自主的に組織)は消防組として神戸市へ移管された[62]。返還に際して日本側は、行事局(後述)局長を兵庫県および神戸市の嘱託職員とし、行事局のあった場所に市の派出所を置く、治外法権撤廃に伴う紛争防止のために外国人が相談委員会(後に神戸国際委員会と改称)[† 8]を設置することを認めるなど、外国人に対し一定の配慮をした[64]。
永代借地権を巡る紛争
편집前述のように、外国人による土地所有を認めない方針をとる明治政府は、居留地内の土地を永代借地(無期限の借地。事実上の所有)として外国人に貸与した[37]。永代借地権は居留地返還後も存続した[† 9]が、返還後日本側は永代借地の上に建つ家屋に課税する方針を打ち出した[† 10]。これに対し外国側はすでに地税が徴収されているにもかかわらずさらに家屋への課税を行うことは二重課税にあたり不当であると反発し、1902年(明治35年)に日本政府が常設仲裁裁判所に提訴する事態に発展した。この提訴は1905年(明治38年)に日本側の申し立てが棄却される結果に終わり、日本側は永代借地上の家屋には一切の課税ができないことになった[67][68][69][70]。
税の徴収が不可能となった神戸市は1933年(昭和8年)より永代借地権撤廃に向けて行動を開始し、1936年(昭和11年)9月に同様の問題を抱えていた横浜市、長崎市とともに協議会を発足させると、両市と協力して外国側との折衝を行った。その結果1937年(昭和12年)3月に、1942年(昭和17年)4月1日をもって永代借地権を消滅させ土地所有権に切り替え、その代わり切り替え後5年間は地税を免除することで合意が成立した[71][72][73]。
条約上の居留地返還は1899年(明治32年)7月17日であるが、居留地の完全な消滅、居留地の歴史の終焉は永代借地権が解消された1942年(昭和17年)4月1日であるとされる[74][75]。
返還後
편집返還された居留地(旧居留地)には大正から昭和初期にかけて日本の商社や銀行が多く進出し、ビジネス街として発展した[76]。一方、外国商館は第一次世界大戦を境に衰退を見せた[76][77]。とりわけ大戦において日本と敵対したドイツ人所有の不動産は強制的に日本人に売却され、旧居留地においてもドイツ系商社が日系商社にとって代わられた[78]。1931年(昭和6年)の時点で、外国人が永代借地する旧居留地内の区画は126区画中47区画にまで減少した[79]。
第二次世界大戦期の1945年6月に神戸大空襲によって7割の区画が破壊されると、終戦後も復興はなかなか進まず[80][81]、加えて昭和30年代に東京への本社機能移転や神戸市における都心の東進化が生じたことで、旧居留地の経済的な位置付けは低下した[81]。しかし昭和50年代に入り旧居留地内に残された近代洋風建築物や歴史的景観が再評価されるようになると[† 11]、そうした要素を活用した店舗が新たに開設され[80]、旧居留地はビジネス街とショッピング街の機能を併せ持つ区域として活況を呈するようになった[81]。
自治と治外法権
편집thumb|140px|38番地にあった行事局の建物 明治政府は1868年8月7日(慶応4年6月19日)に成立した「大阪兵庫外国人居留地約定書」において、外国人に対して居留地における一定の行政権と財政権を認めた。具体的には居留地内のインフラ整備・治安維持を中心とする自治行政を行うための最高議決機関[44]として居留地会議を創設し、その運営費用には居留地の競売代金の一部と地税・警察税(地税と警察税の徴収は居留地側が行うことができた)を充てることを認めた。居留地住民による自治行政は居留地が廃止されるまで続いた(なお、長崎や横浜の居留地にも当初は自治権があったが、途中で放棄されている)[45][† 12]。また、各国政府は神戸外国人居留地周辺に領事館を開設し、自国の経済的利益と国民を保護し領事裁判権を行使する領事を置いた[84]。
最高議決機関である居留地会議は、各国の領事と兵庫県知事、選挙によって選ばれた居留地の住民代表(行事)3名によって構成された。居留地会議議長は領事の代表が務めることが多かった[85]。居留地会議の会議は英語で行われ、議事録は新聞で公表された[86]。居留地会議の執行機関として行事局が設置された[87]。行事局には3名の委員がおり[88]、行事局長によって統括された[87]。初代の局長は C・H・コブデンで、後任のヘルマン・トロチックが1872年(明治4年/5年)から居留地返還まで局長を務めた[87][89]。トロチックは1874年(明治7年)4月に居留地警察署が設置されるとその署長を兼務した[89]。重要案件については居留地会議の下に設けられた委員会において検討され、その報告を基に居留地会議が決定を下すというプロセスが採られた[86]。
外国人による自治が認められたことで、居留地内において立ち入りや警察権の行使など日本側の権利・権限は制限された。また、日本と欧米諸国との間で結ばれた不平等条約によって領事裁判権が認められ、条約の適用対象となる居留外国人が当事者である法的紛争については外国領事による裁判が行われた[† 13](自治権については属地主義が採られ居留地内にのみ及んだのに対し、領事裁判権については属人主義が採られ、居留地外の紛争にも及んだ[91]。もっとも実際には、外国人が居留地外においても居留地内と同様の治外法権を主張し、日本側とトラブルに発展することもあった[92])。
自治と治外法権を巡る問題
편집日本人の居住・立ち入りについて
편집日本人は居留地内での居住が禁止され[46]、開港当初は居留地への立ち入り自体も禁じられていたが、1869年(明治元年/2年)以降は鑑札を所持する者については許可された[47]。なお、居留地内で活動した警察組織には数人の日本人が警察官として所属していた[93]。
警察権を巡る問題
편집前述の「大阪兵庫外国人居留地約定書」では警察目的の税(警察税)の徴収が認められていたため、外国側は警察権について、居留地会議に帰属すると考えていた。しかし兵庫県は県に警察権が帰属するという見解を取っていた。この見解の相違が原因で1871年7月2日(明治4年5月15日)、「女王対ウォータース事件」と呼ばれる事件が起こった。
1871年7月2日(明治4年5月15日)、兵庫県所属の警察官が居留地内にいた女性を売春婦と疑い、警察詰所に連行した。取り調べの結果女性は居留地在住のイギリス人ウォータースの使用人であると判明して釈放されたが、これに怒ったウォータースは翌3日(明治4年5月16日)、使用人を連行したと思しき警察官2名を屋敷内に監禁した。この事件は領事裁判権に基づきイギリス領事A・J・ガワーが裁くこととなったが、判決においてガワーは、日本の警察官は居留地内で警察権を行使することはできず、身柄の拘束はもちろんパトロールを行う権限もないのであって、ウォータースの警察官に対する公務執行妨害罪は成立しない(単に私人に対する逮捕・監禁罪が成立するに過ぎない)という判断を示した。この判決によって、居留地内においては、行事局を統括する行事局長指揮下の居留地警察のみが警察権を行使することができるということが明確になった。兵庫県は1899年(明治32年)の返還まで居留地内において警察権を行使することができなかった[94][95]。
ノルマントン号事件の査問会および予審
편집1886年(明治19年)に起こったノルマントン号事件に関する査問会および予審は、神戸外国人居留地において領事裁判権が行使された有名な事件の一つに挙げられる[96]。10月24日、横浜居留地の汽船会社が所有する貨物船ノルマントン号が和歌山県沖で沈没し、貨物と共に輸送していた日本人の乗客25名全員が死亡する事件が起こった。この事件では11名のイギリス人乗組員が救命ボートに乗って助かったにもかかわらず日本人の乗客が全員死亡したことについて、船長をはじめとする乗組員が救助を怠ったのではないかという疑念が向けられた[97]。安政五カ国条約によってイギリスに認められていた領事裁判権に基づき、事件に関する査問会が11月1日から5日にかけて神戸外国人居留地で行われ、イギリス領事ジェームス・トループは乗組員に過失なしとする判断を下した[98]。この判断を不服とした兵庫県知事内海忠勝は船長を殺人罪で告訴し、告訴を受けて11月20日に同じく神戸外国人居留地で行われた予審と12月8日に横浜で行われた公判ではともに船長に対し有罪判決が下された[99]。ノルマントン号事件の査問会で乗組員に過失なしと判断されたことで、日本国内では領事裁判権に対する疑問や批判が巻き起こり[100]、反英感情が高まった[101]。この査問会は、日本人と外国人との関係がうまくいっていたとされる神戸外国人居留地の歴史における「影の部分」と評される[102]。
街並
편집兵庫の開港は横浜や長崎より約9年遅れてのものであったため、神戸外国人居留地では両居留地における造成・設計の経験を活かした合理的な都市計画を立てることができた[4]。1871年4月17日付の英字新聞「The Far East」は、「神戸は東洋における居留地としてもっともよく設計されている」と評した[4][† 14]。
完成した居留地の街並みは、以下のような特徴を持っていた。
- 前述のように東を(旧)生田川(後のフラワーロード)、西を鯉川(後の鯉川筋)、南を海と、三方を川と海に囲まれていた[27][2]。ただし東西の川については1870年代に付け替えおよび暗渠化の工事が行われた(後述)。
- 南北8本、東西5本の道路[† 15]によって22の街区に分けられ、さらにそれぞれが区画化され全体で126の区画によって構成されていた。一区画当たりの面積は200-300坪で、居留地全体の面積は道路を除くと4万9645坪あった(1885年(明治18年)末のデータ)[106]。
- 道路は、車道と歩道が区別されていた[107]。
- 南北を走る道路には排水を海に流すための下水道が埋設されていた[108]。下水管には楔型のレンガを漆喰で固めて円筒状にしたものが用いられた[109][† 16]。
- 通りには街路樹や街灯が設置され、車道と歩道が区別されていた[107]。電線は地下配線され、電柱は建てられなかった[111]。
- 南側の海岸沿いの通り(海岸通)には芝生と松並木が植えられ、プロムナードとして整備された[107]。
ガス灯
편집1874年(明治7年)11月、居留地内の複数の商社が出資して設立したブラウン商会(大阪瓦斯の前身の一つ)が居留地へのガスの供給(兵庫県初)[† 17]を行うようになり、居留地内にはそれまで使用されていた石油灯に替わってガス灯が設置されるようになった[112]。居留地時代に設置されていたガス灯94基のうち、2基が旧ハッサム住宅前に、1基が愛知県の博物館明治村に設置されている。また、神戸市立博物館と大丸神戸店の周囲には復元されたガス灯が設置されている[114]。
なお、神戸区では1888年(明治21年)11月から電気の供給が開始され、市街地には電灯が設置されるようになったが、ガス灯が設置されていた居留地ではブラウン商会を中心に反対論が張られ、電気供給および電灯設置は遅れた。また、電気供給が開始されるにあたって居留地側は電線が空中を横切るのは美観を損ねると主張し、電線は地下に配線されることになった。居留地返還後も旧居留地では電線は地下配線され、通りに電柱が建てられることはなかった[114]。
建築様式
편집thumb|200px|left|旧居留地十五番館 初期に建てられた建築物の多くは古典主義の色彩を帯びていた[115]。15番館(旧居留地十五番館)はその典型とされ、2階立てで2階にオーダーを配したベランダが配置された[116]。古典主義は、19世紀中頃の東アジア居留地において圧倒的な主流を占める建築様式であった[117]。
明治20年代に入ると、イギリスの建築家アレクサンダー・ネルソン・ハンセルの活躍によって建築物のデザインの流行に変化が現れた[118]。ハンセルはゴシック・リヴァイヴァル建築の考えに基づき、煉瓦をむき出しにしたデザインを好んで採用した[119]。ハンセルは神戸外国人居留地において神戸倶楽部を皮切りに香港上海銀行、チャータード銀行、ジャーディン・マセソン商会、ドイツ総領事館、デラカンプ商会など数多くの建築物の設計を手掛けた[120]。
擬洋風建築が多く建てられた横浜外国人居留地と異なり[52]、神戸外国人居留地における建築はすべて外国人建築家の主導の下で行われ[121]、建築主はほとんどが外資系企業であった[122]。一方明治30年代に入ると、工部大学校造家学科(後の東京大学工学部建築学科)出身の辰野金吾、曽禰達蔵、河合浩蔵や、エコール・サントラル・パリへ留学し建築学を学んだ山口半六といった日本人建築家たちが、神戸において日本の官公庁および企業を建築主とする建築物の設計を多く手掛けるようになった[123]。辰野らのように工部大学校造家学科においてイギリスの建築家ジョサイア・コンドルの指導を受けた[† 18]建築家や、山口のように日本国外で建築学を学んだ建築家は、明治期の日本建築界発展の素地を作ったと評価されている[124]が、これら日本人建築家と居留地で活動した外国人建築家は、建築主の違いから活動範囲において明確に一線を画し、関わりは希薄であったとされる[125]。
宿泊施設(ホテル)
편집神戸外国人居留地で最も早く開業した宿泊施設はグローブホテル1868年(慶応4年/明治元年)開業。営業終了の時期およびホテルの位置は不明)で、その後もいくつかの宿泊施設が開業した[126]。その中で最も有名なものはオリエンタルホテルで、遅くとも1870年8月3日(明治3年7月7日)には79番地で営業を開始していたことが確認されている[127]。オリエンタルホテルには後述のように、社交クラブであるユニオンクラブの事務所が1870年(明治3年)に、さらにユニオンクラブと入れ替わる形でクラブコンコルディアの事務所が1881年(明治14年)頃に置かれ[128]、同年9月23日(8月28日)には後述のスポーツクラブ、神戸レガッタアンドアスレチッククラブ (KRAC) の設立総会が開かれた[129]。オリエンタルホテルは1888年(明治21年)頃に80番地を買収して本館を移したが、その頃責任者を務めていたフランス人の料理人ルイ・ビゴの作った料理が評判を呼んだ[130]。居留地返還後もオリエンタルホテルは営業地を移しつつ業務を継続、1995年(平成7年)に発生した阪神・淡路大震災により建物が倒壊し営業を停止したが2010年(平成22年)3月3日に再開した[131]。
東西の川の工事
편집前述のように開港当初居留地の東端には(旧)生田川が、西端には鯉川が流れていたが、(旧)生田川は堤防が低く、しばしば居留地内に水害をもたらし[132]、鯉川は交通の妨げになると外国人からの評判が悪かった[133]。
明治政府は生田川について、1871年4月29日(明治4年3月10日)から同年7月26日(明治4年6月9日)にかけて川の流れを東へ移す付け替え工事を行い、上流にある布引の滝からまっすぐ小野浜まで南下する新たな生田川(新生田川)が作られた[132]。旧生田川の河川敷は埋め立てられ、道路(フラワーロード)[107]や日本人と外国人が共同利用するグラウンド(内外人公園。後の東遊園地。詳細については後述)[134]が造成された。右岸の堤防の一部はそのまま小山のように残され、異人山と呼ばれるようになった。異人山があった場所には後に神戸市役所が建てられた[135]。埋立地の一部には工事を請け負った加納宗七の名に因んで「加納町」という地名が付けられた[107]。なお、この工事には居留地の設計に当たったジョン・ウイリアム・ハートも関与した[136]。
鯉川については、居留地側から兵庫県および明治政府に対し、工事費用の半分を負担するから川に蓋をしてほしいという要望が出され、1874年(明治7年)10月から1875年(明治8年)1月にかけて工事が行われた。その後1909年(明治42年)になって鯉川はコンクリートで覆われた完全な暗渠となった。さらにその後暗渠の上に道路(鯉川筋)が敷設された[137]。
雑居地・遊歩区域
편집居留外国人は居留地外の一定の区域にも居住し、移動した。以下詳述する。
雑居地
편집前述のように1868年1月1日(慶応3年12月7日)の開港日の時点ではごくわずかな土地と設備が造成されたにすぎなかった。明治政府は江戸幕府が諸外国と結んだ条約・取り決めを継承すると宣言していた[138]が、江戸幕府は前述の1867年5月16日(慶応3年4月13日)締結「兵庫港並大坂に於て外国人居留地を定むる取極」(兵庫大阪規定書)において、居留地が手狭になった場合は居留地を拡張するか日本人が外国人に家屋を貸すことを認めていた[49]。そのことから明治政府は1868年3月30日(慶応4年3月7日)、東は(旧)生田川、西は宇治川、南は居留地南の海岸、北は山辺(山麓)と区域を限った上で、外国人が居住することを認め、居住に際して借地、借家、家屋の購入および普請を行うことも認めた[48][49]。この区域を雑居地と呼ぶ。雑居地の土地についてはごく初期を除いて外国人に対する永代借地権が認められず、期限(はじめは5年に設定されたが、のちに25年に延長された)を定めた借地のみが認められた[139]。雑居地は居留地の工事の遅れを受けて暫定的に設けられたものであったが、居留地の全区画が完成しても収容しきれないほどに居住者が増加したため、廃止した場合に居留地の拡張を要求されることを恐れた明治政府は居留地返還まで雑居地を存続させた[50]。雑居地の面積は道路を除くと2万6756坪であった(1885年(明治18年)末のデータ)[140]。
清国人は、開港当初は母国が日本と条約を結んでいなかったため居留地に住むことができず、雑居地に居住した(1871年9月13日(明治4年7月29日)に日清修好条規が締結されて以降は、居留地内に居住することが可能になった)[141]。その影響から居留地西側の雑居地には清国人街が形成された[51]。日清修好条規締結後、居留地と周辺の雑居地に居住する清国人は増加していった[142]。清国人は後述のように清国人は外国商館を通じて行われた貿易において「買弁」と呼ばれる仲立人を務めた[143][144]ほか、清国とのパイプを利用して同国向けのマッチの輸出において大きな枠割を果たした[145]。
雑居地であった地域には外国人が居住していた住宅が多く残されており、「異人館」として観光の対象となっている[146]。また南京町の中華街は、居留地時代に清国人街が形成された居留地西側の地域に存在する[147][148]。雑居地において日本人が外国人を身近に接しながら暮らし、「生活レベルでの国際交流」が行われたことは、日本人と外国人が共生する「多民族・多文化共生都市」としての神戸市の原型を形成したと評価されている[149]。
遊歩区域
편집安政五カ国条約では居留外国人の行動範囲を規制する条項が盛り込まれ、居留外国人が移動可能な区域(遊歩区域)は兵庫県庁を基点とする10里以内の区域に限られることになった。1869年(明治元年/2年)、兵庫県は遊歩区域を具体化するべく「外国人遊歩規定」を定め、「10里以内」を路程にして10里以内と解釈し、東は川辺郡の小戸村・栄根村・平井村・中島村、西は印南郡の曽根村・阿弥陀村、南は海、北は川辺郡の大原野村、多紀郡の川原村・宿村・八上下村・犬飼村、多可郡の田高村・明楽寺村・横尾村を境界とした。しかし解釈を巡って外国側から「10里とは路程にして10里ではなく直径10里を意味する」と異議が出た結果、北と西の境界は川辺郡・印南郡・多紀郡・多可郡全域に変更された[150][151]。遊歩区域外は「内地」と呼ばれ、居留外国人は保養と学術を目的とする場合に限って内地へ出ることが許され、その際には兵庫県庁発行の旅行免状を携帯することが義務付けられた。しかし実際には居留外国人が行楽などの目的で無断で内地へ足を伸ばすことも多く、しばしば兵庫県を悩ませた[152][153][154]。なお、1899年(明治32年)の居留地返還と同時に外国人が日本国内に自由に居住・外出すること(内地雑居)が認められるようになった[155]。
貿易
편집兵庫港(神戸港)では開港直後から盛んに貿易が行われた。初期の貿易は日本人商人が納入した商品を外国人商人が輸出し、外国人商人が輸入した商品を日本人商人が購入するという方法で行われた。外国人は居留地外で輸出品を買ったり輸入品を売ることができず、一方日本人には開港当初、直接海外の貿易業者と取引を行うノウハウがなかったためである[156]。このような、外国人商人を介した貿易を居留地貿易、または商館貿易という[157]。外国人商人への商品納入や外国人商人からの商品購入を希望する日本人商人(前者を売込商、後者を引取商と呼んだ)は、日本人の番頭や「買弁」と呼ばれる清国人の仲立人を介して商談を行った[143][144]。外国人商人側の人間の多くは高圧的・横暴で、他国との貿易に不慣れで海外情勢に疎い日本人が不利な取引慣行を押しつけられたり、買い叩きや値段のつり上げに遭うケースも多々あった[158][159][160]。
しかし次第に日本の商人や商社が直接貿易業務を行うようになり、外国人商人の力は衰退していった。神戸港の貿易量に占める外国人商人が取り扱う貿易量の割合は当初100%であったが、居留地返還直前の1897年(明治30年)には65%に減少しており、さらに返還後の1907年(明治40年)には50%、1911年(明治44年)には40%に減少した。居留地返還後は外国人商人が旧居留地から撤退し、旧居留地内での事務所開設が可能となった日本の商社にとって代わられるようになった[161]。1931年(昭和6年)の時点で、外国人が永代借地する旧居留地内の区画は126区画中47区画にまで減少した[79]。
主要な輸出品は茶・米穀・マッチである。このうち茶については、初期は京都の茶が輸出され、次第に西日本一帯で生産された茶が集められ、輸出される仕組みが完成した[162][163]。米穀は、後述のように神戸からの輸出米がロンドンの穀物市場における標準米となるほど輸出量が多かった[164]。マッチは1870年代後半に神戸において本格的な製造が始まり、同時に海外への輸出が始まった。神戸港からのマッチの輸出額は明治10年代後半以降急速に増加し、全国のマッチ輸出額の9割以上を占めるまでに発展した。輸出先は当初は中国が中心であったがやがてオーストラリアやヨーロッパ・アメリカ大陸にまで拡大した[165][166]。
一方、主な輸入品は金巾・綿ビロードなどの木綿類や毛織物であった[167][168]。1896年(明治29年)には神戸市に住む高橋信治が14番地にあったリネル商会を通じてキネトスコープを輸入し、日本初の映画(活動写真)の公開を行っている[169]。居留地返還直前の1894年(明治27年)以降明治を通じ、神戸港からの輸入額は日本の港の中で最も多かった[170]。
文化
편집食文化
편집ラムネ
편집神戸外国人居留地はラムネ発祥の地と言われることがある[† 19][172]。アレキサンダー・キャメロン・シムが経営するシム商会が、1884年(明治17年)頃に「18番」と呼ばれる(シム商会が居留地18番地にあったことにちなむ)ラムネの製造・販売を始めた[173]が、「日本清涼飲料水工業発達史」には「神戸の A.Cシム商会が日本で最初のラムネだろう」と記されている[174]。シムがラムネを売り出した当時、日本ではコレラが流行しており、1886年(明治19年)に横浜毎日新聞が「ガスを含有した飲料で感染が防げる」と報道したのをきっかけに売れ行きが伸び[175]、当時の新聞報道(『大阪日報』)によるとシムのラムネは「払い底になった」[175]。
牛肉
편집兵庫開港以前、横浜居留地の商人が購入した丹波・丹後・但馬産の牛肉は外国人の間で高い評価を得ていた。[176]。そのため開港後、外国人は盛んにそれらの牛肉を求めたが、当時の日本では牛肉を食べる習慣がなく、計画的に牛肉を供給する仕組みはなかった。そこで外国人は自ら屠畜場や肉屋を開設した[177]。初めにこれを実行したのは後述の実業家エドワード・チャールズ・キルビーで、詳しい時期は不明であるが旧生田川の東に屠畜場を借り、海岸通に肉屋を開設して牛肉の販売を行った[178]。また、1868年(慶応4年/明治元年)にはテボールという名のイギリス人が旧生田川沿いに屠畜場を開設したという記録がある[178]。1871年(明治3年/4年)に日本人が牛肉の供給に携わるようになり、1875年(明治8年)以降はほとんど日本人によって独占された(外国人は1894年(明治27年)に食肉業から完全に撤退した)[179]。
居留地周辺では開港後間もない頃から、日本人が業として牛肉を取り扱い、食するようになった。1869年(明治元年/2年)に神戸元町[† 20]で開業した肉なべ専門店「関門月下亭」は神戸最古の日本人経営の牛肉料理屋とされる[178][180]。神戸最古の日本人経営の牛肉店は1871年(明治3年/4年)開店した大井肉店と森谷商店といわれる[178]。大井肉店創業者の岸田伊之助は牛肉の味噌漬けや佃煮など西洋にはない独自の調理法を考案した[178][181]。1870年代の終わりには鈴木清が醤油と砂糖で味付けした牛肉の缶詰を開発し、全国的なヒット商品となった[182]。
洋菓子
편집洋菓子は開港後、居留外国人や旅行者向けに作られるようになった[183]。1882年(明治15年)に雑居地の元町3丁目で創業した二宮盛神堂が、神戸初の洋菓子店とされる[184]。さらに同年刊行された『豪商神兵湊の魁』には、相生橋の三国堂が洋菓子店として紹介されている[184]。1897年(明治30年)、吉川市三が東京南鍋町の風月堂からのれん分けを許され元町に創業した神戸風月堂は、神戸初の本格的な洋菓子店とされ[185]、開店当初からカステラ、ワッフル、シュークリーム、キャンディー、チョコレートといった洋菓子が販売されていた[186]。
キリスト教
편집明治政府は江戸幕府によるキリスト教禁制を踏襲し、1873年(明治6年)2月24日にキリスト教禁制の高札を撤去するまでの間キリスト教を禁じた。しかし安政五カ国条約により外国人には信教の自由が認められたため、居留地内では開港当初から宣教師により盛んに宗教活動が行われた[187]。
1868年8月9日(慶応4年6月21日)、パリ外国宣教会の宣教師ピエール・ムニクウが西国街道(後の元町通)沿いの仮礼拝所において毎週日曜日にカトリックの定期的な礼拝を執り行うようになった[188]。翌1869年3月(明治2年1月/2月)、ムニクウは37番地に司祭館を建設し、毎週日曜日に定期的な礼拝を執り行うようになった[189]。ただし居留外国人にはプロテスタントを信仰する者が多く、参加者はそれほど多くなかったとされる[190]。続けてムニクウは37番地に礼拝堂を建設し、翌1870年4月17日(明治3年3月17日)に献堂式が行われた[191]。この礼拝堂は1923年(大正12年)に中山手通1丁目に移設され(中山手教会[192])、カトリック神戸中央教会のルーツの一つとなっている[193]。
1870年5月22日(明治3年4月22日)、アメリカン・ボードの宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンが18番地でプロテスタントの定期的な礼拝を執り行うようになった[194][195]。グリーンは教会の建設運動を行い、1872年(明治4年/5年)、48番地に教会(ユニオン教会。1928年(昭和3年)葺合区生田町4丁目に移転(旧神戸ユニオン教会)[196]。)が完成した[197]。ユニオン教会では1876年(明治9年)から1898年(明治31年)にかけて聖公会の礼拝も行われた[198]。
聖公会の礼拝は1873年(明治6年)から行われるようになった。前述のように1876年(明治9年)から1898年(明治31年)にかけては48番地のユニオン教会で礼拝が行われ、1898年(明治31年)に下山手通3丁目にオール・セインツ教会が完成した後は同教会で行われるようになった[198]。オール・セインツ教会は太平洋戦争中に焼失し、再建されることはなかった[199]。
音楽
편집海岸沿いの通りや内外人公園(後の東遊園地)、神戸レガッタアンドアスレチッククラブ(KRAC。後述)の体育館、西町公園[† 21]では様々な音楽活動が行われた。活動の主体としては各国の軍楽隊や私設の音楽隊、プロおよびアマチュアの演奏家が挙げられ、演奏会のほか舞踏会、スポーツ大会などで演奏を行った[200]。KRAC は体育館の運営費用を賄うため、年1回ないし3回、演劇と併せてコンサートを催した[201]。
スポーツ
편집居留外国人が行ったスポーツ
편집居留外国人は様々なスポーツを行った。多くはスポーツ組織(クラブ)の下で行われ、中でも神戸レガッタアンドアスレチッククラブ (KRAC) の下で行われたスポーツは多岐にわたる。
スポーツ組織
편집ヒョーゴ・オーサカ・レースクラブ
편집[[ファイル:Kobe-keiba6379.JPG|thumb|神戸外国人居留地周辺で開催された競馬を描いた浮世絵(二代目長谷川貞信作・摂州神戸西洋人馬駆之図)]]
1869年3月1日(明治2年1月19日)、神戸外国人居留地初のスポーツ組織であるヒョウゴ・レース・クラブ(HRC。後にヒョーゴ・オーサカ・レースクラブ (HORC) と改称。以下 HORC と表記)が発足した[202]。HORC は同年生田神社と旧生田川の間の土地に常設の競馬場を建設し、定期的に競馬を開催するようになった[203][204]。HORC は日本レース・倶楽部と人馬の交流を行う[205]など活発に活動したが、その後財政状態が悪化し、借地料支払い不能に陥って競馬場を失い1877年(明治10年)11月に解散した[206]。
神戸クリケットクラブ(兵庫クリケットクラブ)
편집イギリス人の居留民が多かった神戸外国人居留地では、同国の伝統的なスポーツであるクリケットの愛好家が開港当初から盛んに活動していた。1870年1月19日(明治3年12月18日)、前年10月16日(明治2年9月12日)にイギリス軍人のチームを相手に試合を行った居留外国人チームの主力メンバーが中心となり、兵庫クリケットクラブ (HCC) が設立された(翌1871年(明治3年/4年)に神戸クリケットクラブ (KCC) と改称[207]。以下 KCC と表記)[208]。KCC は長らくグラウンドやメンバーの確保に苦しみ目立った活動を行うことができずにいた[207]が、1877年(明治10年)5月に内外人公園(後の東遊園地)が完成して以降は活動が活発となり、同公園内で毎週のように試合を行った[209]。1893年(明治26年)以降は野球の試合も行うようになった[210]。KCC は第二次世界大戦期まで存続した[211]。
神戸レガッタアンドアスレチッククラブ
편집神戸レガッタアンドアスレチッククラブ (KRAC) は、1870年9月23日(明治3年8月28日)にアレキサンダー・キャメロン・シムの提唱により発足したスポーツクラブである[212][213]。KRAC は発足当初から居留地東部にグラウンドを確保し、発足から3か月後の1870年12月(明治3年閏10月/11月)にボートハウスと体育館[† 22]を、1871年6月(明治4年4月/5月)に水泳場を完成させるなど順調に活動を開始した[217]。KRAC の会員が競技するスポーツはレガッタ・陸上競技・ラグビー・テニス・水泳・水球・ライフル射撃など多岐にわたった[218]。1871年(明治3年/4年)、KRAC は横浜居留地において横浜ボート・クラブ、日本ローイング・クラブとレガッタの対抗戦を行った。これがきっかけとなって神戸と横浜のスポーツクラブとの間で定期的にレガッタ・陸上競技・クリケット・フットボール(ラグビー・サッカー)などの対抗戦(インポートマッチ)が開催されるようになった。インポートマッチは第二次世界大戦中の一時期を除き、居留地返還後も続けられている[219]。
KRAC の体育館は会員以外にも開放され、KRAC のクラブハウスとしてだけではなく、居留地内の市民ホールとしても機能した[220]。この体育館は劇場としても使用され、「体育館劇場」、「居留地劇場」などと呼ばれた[221]。KRAC は単なるスポーツ組織ではなく、スポーツを通じて居留外国人の親睦を深めるという役割を果たし、ボランティア活動[† 23]などの社会活動を行った[223]。
内外人公園
편집開港直後の1868年(明治元年)クリスマスに、区画整理が遅れていた居留地東北部に設けられた馬場で競馬が催された。この開催を契機に競馬の他にクリケット・陸上競技などのスポーツが同地で行われるようになった。ただし居留外国人にとってこれはあくまでも区画整備が完了するまでの仮のグランドであり、スポーツを行うことができる正式なグラウンド設置を求める声が上がった[224]。居留外国人には日本政府がグラウンドの設置を保証しているという認識があり[224][† 24]、1871年4月29日(明治4年3月10日)から同年7月26日(明治4年6月9日)にかけて行われた旧生田川の付け替え工事に伴って居留地東側に広大な土地が出現すると、居留外国人の間ではその土地を利用してグラウンドが設置されると噂されるようになった[226]。
1872年2月(明治4年12月/明治5年1月)、居留外国人の一部が独断で土地の一部に棒杭を打ち込んで所有権を主張するという行動に出た。日本政府はこの行動に反発したが、交渉の結果1874年(明治7年)11月、外国人と日本人が共同利用する公園という形でグラウンドの設置を認めた[227]。建設費と維持費は外国人側の負担となった[228]が、開港から約10年をかけて居留外国人はグラウンドを手に入れることができた。公園は1877年(明治10年)5月に完成し、内外人公園と名付けられた[229]。
内外人公園のグラウンドは芝生のグラウンドであった[230]。内外人公園で居留外国人がラグビー・テニスなどに興じている姿を日本人が目にしたことは、それらの競技が周辺に普及するきっかけとなったと評価されている[231]。内外人公園は1899年(明治32年)の居留地撤廃に伴って日本に返還され、神戸市が管理する公園(加納町遊園地、1922年(大正11年)に東遊園地と改称)となった[231]。公園が持つスポーツを行うためのグラウンドとしての機能は居留地返還後も、1962年(昭和37年)に磯上公園(神戸市中央区八幡通)に移されるまで約90年にわたって維持された[232]。
外字新聞
편집神戸外国人居留地で最初に発行された外字新聞は、A・T・ワトキンスが創刊した「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」で、第1号の発行は1868年1月4日(慶応3年12月10日)である[233]。続いて同年4月23日(慶応3年4月1日)には「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」で植字工をしていたフィロメーノ・ブラガによって「ヒョーゴ・ニュース」が創刊された[234]。やがて「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」は購読料の安い「ヒョーゴ・ニュース」に押され数年のうちに廃刊となった[234]。
1888年(明治21年)に入り A・W・クイントンにより「コーベ・ヘラルド」が[235][236]、1891年(明治24年)10月2日にはロバート・ヤングにより「コーベ・クロニクル」が創刊された[237][238]。「コーベ・クロニクル」では後述のように小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が社説を執筆したこともある[239][240]。居留地返還直後の1899年(明治32年)、「コーベ・クロニクル」は「ヒョーゴ・イヴニング・ニュース」と改称していた「ヒョーゴ・ニュース」を買収して社名を「ジャパン・クロニクル」に改め、神戸のみならず日本において最大の発行部数を記録する外字新聞に成長した[241]。
「コーベ・ヘラルド」は1926年(大正15年/昭和元年)に「コーベ・ヘラルド・オーサカ・ガゼット」と改称したがその後まもなく廃刊した[242]。「ジャパン・クロニクル」は太平洋戦争中の1942年(昭和17年)(昭和17年)1月に廃刊した[243]。
社交クラブ
편집神戸外国人居留地には2つの社交クラブが存在した。一つは1868年(慶応4年/明治元年)にドイツ人の居留民が設立したクラブコンコルディアである。クラブコンコルディアはドイツ人のみが入会できる社交クラブであったが、居留地の東端に建設した施設の維持費を賄うためにドイツ人以外の入会も認めるようになり、オランダ人・ノルウェー人・スウェーデン人などが入会した[244][245]。もう一つは1869年5月5日(明治2年3月24日)にアメリカ人とイギリス人が中心となって設立されたユニオンクラブ(インターナショナルクラブともいう。後の神戸外国倶楽部)である。ユニオンクラブにはアメリカ人・イギリス人のほかフランス人・イタリア人などが入会した。ユニオンクラブは居留地内の建物(初めは31番地、次いで32番地、79番地(オリエンタルホテルの地下。1870年(明治3年)[246])に本拠を置いて活動した[244][247]。ドイツ帝国成立後、クラブコンコルディア内部でドイツ人会員と非ドイツ人会員との対立が生じ、非ドイツ人会員が大量に脱会する事態となった。資金難に陥ったクラブコンコルディアは施設をユニオンクラブに売却し[248]、1881年(明治4年)頃[249]、ユニオンクラブと入れ替わりに79番地のオリエンタルホテル地下に本拠を移した[248]。第一次世界大戦が勃発するまでの間、2つのクラブの関係は良好で、1890年代にオリエンタルホテルが火災により焼失した際にはクラブコンコルディアの会員がユニオンクラブの施設を利用できるよう、ユニオンクラブが配慮を示している[250]。ユニオンクラブ(神戸外国倶楽部)は居留地返還後も活動を続けている[251][252]。
関帝廟
편집関帝廟は華僑・華人にとって商売繁盛や家内安全を祈願する場であり[253]、精神的な拠り所である[254]。清国人は雑居地内の2箇所に関帝廟を建立した。1つは1888年(明治21年)、清国人の有力者藍卓峰、鄭萬高、麦少彭らが大阪府河内郡布施村の廃寺、慈眼山長楽寺を移設する形で中山手通7丁目に建立したものである[255]。長楽寺の本尊は十一面観世音菩薩であったが、移設に伴い関帝、天后聖母などが合祀された[256]。この関帝廟は居留地返還後の1945年(昭和20年)6月に空襲により焼失したが、1947年(昭和22年)年に再建され、台湾から輸入された関帝像が設置された[257]。もう1つは同じく1888年(明治21年)に加納町2丁目に建立されたもので、同じく1945年(昭和20年)6月に空襲により焼失し、再建されることはなかった[258]。なお、中山手通6丁目にあった中華会館 [† 25] にも関帝像が安置されており、中華会館は関帝廟と呼ばれていた[260]。
再建された関帝廟では毎年旧暦7月14日から16日にかけて水陸普度勝会(盂蘭盆)がとり行われており、1997年(平成9年)10月に神戸市の地域無形民俗文化財(第一号)に認定された[261]。
医療
편집居留外国人は開港当初から居留地の衛生状態の悪さを強く問題視していた[262]。チフスに罹る者が多く[263]、さらに天然痘やコレラの蔓延が懸念された[262]。1869年(明治2年)5月には兵庫県が宇治野村(後の神戸市中央区下山手通2丁目)に日本人だけでなく外国人も受け入れる病院として兵庫県病院(神戸病院[264]。後の神戸大学医学部附属病院[265])を開院させた[266]が、1年あまりで医療レベルの低さが喧伝されるようになり、外国人の間からは自前の病院設立を求める声が高まった[267]。
外国人側は日本人と共同利用する病院の設置を模索したが兵庫県側の反応は芳しくなく、1871年2月(明治4年1月)になって寄付金を基に単独で兵庫国際病院(神戸万国病院。後の神戸海星病院[268])を設立することを決めた[269]。1872年7月(明治5年5月/6月)に兵庫国際病院の医事監督に就任したジョン・カッティング・ベリーは外国人だけでなく日本人も診察する方針を採った[270]。設立当初の兵庫国際病院は生田神社近くの民家[† 20]を借りたものであったが設備面の不備を指摘する声が上がり、1874年(明治7年)に新たな病院が山本通1丁目[† 20]に建設された[271]。
居留外国人
편집居留外国人数
편집居留地(後述の雑居地を含む)に居留した外国人の人数は以下の通りである(国籍別)[272]。
年 | イギリス | アメリカ | ドイツ | フランス | オランダ | 清 | その他 | 合計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1871年 | 116 | 不明 | 36 | 19 | 36 | 240 | 不明 | 不明 |
1878年 | 230 | 52 | 50 | 11 | 26 | 619 | 28 | 1016 |
1880年 | 194 | 63 | 42 | 10 | 10 | 517 | 22 | 858 |
1885年 | 144 | 37 | 42 | 12 | 11 | 630 | 27 | 903 |
1890年 | 310 | 87 | 87 | 59 | 13 | 1432 | 51 | 2039 |
1895年 | 449 | 121 | 177 | 29 | 15 | 988 | 129 | 1908 |
主な居留外国人
편집実業家
편집アレキサンダー・キャメロン・シムは1870年(明治2年/3年)に神戸に移住し、薬剤師として居留地内の薬局(レウェリン商会)に勤務した後、居留地18番にシム商会を設立した[273][274]。シムは前述のように日本初ともいわれるラムネを製造・販売し、神戸レガッタアンドアスレチッククラブ (KRAC) の設立を提唱した人物であるが、その他にも居留地内で住民が自主的に結成した消防隊の隊長を勤め、防災活動に力を注いだことでも知られる[275]。シムは自宅近くの公園(西町公園[† 21])に設けられた火の見櫓に登り、見張りをした[276]。就寝時も出動に備えて消防服とヘルメット、手斧を枕元に置き[277]、消防隊長を務めた間、シムが出動しなかった火事はほとんどなかったと伝えられている[278]。居留地返還に伴って消防隊が消防組として神戸市へ移管された後、シムは消防組名誉顧問に就任し[279]、特別に消防組を指揮する権限が与えられた[280]。シムは居留地会議の副議長も務め、居留地返還時に行われた返還式に病気の居留地会議議長に代わって出席し、引継目録と引継書への調印・署名を行っている[281]。 thumb|120px|left|アーサー・ヘスケス・グルーム トーマス・ブレーク・グラバーが設立したグラバー商会に勤めていたアーサー・ヘスケス・グルームは1868年(慶応4年/明治元年)、支店開設のため神戸を訪れた[282]。グルームは1871年(明治3年/4年)、グラバー商会の同僚ハイマンと共同で居留地101番にモーリヤン・ハイマン商会を設立し、日本茶の輸出とセイロンティーの輸入を手掛けた[283][284]。グルーム1895年(明治28年)に息子の名義で六甲山の山頂に借りた土地に別荘を建てると、さらに同山の土地を別荘地として外国人に分譲し、同山開発の礎を築いた[285][286]。グルームはスポーツマンとしても知られ、前述の神戸クリケットクラブと神戸レガッタアンドアスレチッククラブの設立に関与した[287]。グルームが1901年(明治34年)に六甲山に開設した4ホールのプライベートゴルフコースは日本初のゴルフコースであり[288]、居留地返還後の1903年(明治36年)に会員制のゴルフ場(神戸ゴルフ倶楽部)に発展した[289]。1897年(明治30年)から1916年(大正5年)にかけて前述のオリエンタルホテルを経営する会社の社長を務めたこともある[290][291]。
エドワード・チャールズ・キルビーは開港直後にキルビー商会を設立し、機械や雑貨の輸入業を営んだ[292][293][294][295]。1869年(明治元年/2年)、キルビーはイギリス人2名と共同経営で小野浜鉄工所を設立し、さらに単独で小野浜造船所を設立、造船業を営んだ[296]。小野浜造船所は1882年(明治15年)に日本初の鉄製蒸気船である「第一太湖丸」(琵琶湖の鉄道連絡船)を建造するなど神戸における造船業の発展に大きく貢献したがその後経営難に陥り、キルビーは1884年(明治17年)に自殺した[297][298][299][300]。 thumb|120px|left|エドワード・ハズレット・ハンター キルビー商会に勤務していたエドワード・ハズレット・ハンターは同商会から独立後の1874年(明治7年)、居留地29番館にハンター商会を設立し、貿易業を営んだ[301][302]。さらにハンターは1879年(明治12年)に大阪の材木商・門田三郎兵衛の協力を得て大阪安治川の河口に大阪鉄工所(日立造船の前身)を設立し、造船業にも進出した[303]。ハンターは1883年(明治16年)に当時の技術では困難といわれた木造乾ドックの建造に成功し、大阪鉄工所を関西を代表する造船所に成長させることに成功した[304]。ハンターは多角経営によって事業を軌道に乗せた[305]。1882年(明治15年)に日本政府がとったデフレ政策の影響で大阪造船所の経営が行き詰まった際には精米の輸出事業によって得た収益で窮状を凌いだが、この時ハンターが外国に輸出した精米は年間1万トンを超え、ロンドンの穀物市場では神戸からの輸入米が価格形成における標準米となった[306][307]。晩年のハンターは事業を息子の範多龍太郎に譲り、居留外国人による不平等条約の改正に賛成する決議のとりまとめに尽力するなど、日本人と外国人の交流の深化に努めた[308]。
トーマスとジョンのウォルシュ兄弟は開港直後に神戸に移住し、ウォルシュ商会(後にウォルシュ・ホール商会に改名)を設立して貿易業を営んだ[309]。ウォルシュ・ホール商会は当時の欧米で製紙の材料にされていた木綿を日本で買いつけて輸出する事業を手掛けた[310]。当時木綿は石灰で固めて輸出されていたが、輸送中に木綿に含まれる水分と化学反応を起こして発熱・発火する事故が多発していた。そこでウォルシュ・ホール商会は木綿をパルプ状にして輸送することを発案し、大きな収益を得た[311]。さらにウォルシュ兄弟は三宮[† 20]に製紙工場(神戸製紙所。三菱製紙の前身)を建設して製紙業も手掛けた[312]。
著作家
편집小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は1894年(明治27年)から1896年(明治29年)までの間、神戸外国人居留地で活動した。小泉はバジル・ホール・チェンバレンの紹介で居留地内にあった新聞社コーベ・クロニクル(後のジャパン・クロニクル)に就職し[313]、4か月にわたり同紙の社説において評論活動を行った[314]。小泉が日本への帰化を決意したのは神戸在住時のことである[315]。1896年(明治29年)、小泉は東京帝国大学で教鞭をとるため神戸を去り東京へ移住した[316]。
ヴェンセスラウ・デ・モラエスは1899年(明治32年)、居留地内に設けられたポルトガルの副領事館に初代副領事として赴任(まもなく領事館の初代領事に昇進)し、1913年(大正2年)まで神戸に居住した[316][317]。モラエスは1901年(明治34年)から日本に関する随筆をポルトガルの新聞「コメルシオ・ド・ポルト」に連載した[318]。
キリスト教宣教師
편집thumb|125px|ウォルター・ラッセル・ランバス 神戸外国人居留地を訪れたキリスト教宣教師は、布教のみならず教育・医療・福祉の分野でも活躍した。
南メソジスト教会の宣教師ジェームス・ウィリアム・ランバスとウォルター・ラッセル・ランバスの父子は1886年(明治19年)秋に居留地47番館の自宅を開放して英語と聖書の講義所を開設し、「パルモア学院」と名付けた[319]。パルモア学院は英会話学校のパルモア学院専門学校へと発展し[320]、同学院女子部は啓明学院の前身となった[319][321]。さらにジェームスは広島女学校(後の広島女学院大学)保母師範科(聖和大学[† 26]の前身の一つ)の設立に関与し[322]、ウォルターは1889年(明治22年)に関西学院を設立した[323]。またジェームスの妻メアリー・イザベラ・ランバスは、1888年(明治21年)年に神戸婦人伝道学校(後のランバス記念伝道女学校。前述した広島女学校保母師範科と共に聖和大学[† 26]の前身の一つ)を設立したことで知られる[322]。 thumb|120px|left|ジュリア・ダッドレー 前述のアメリカン・ボードに所属する女性宣教師、イライザ・タルカットとジュリア・ダッドレーは女子教育の向上に努め、1875年(明治8年)、諏訪山の麓に兵庫県初の女学校(通称「神戸ホーム」。神戸女学院大学の前身)を創設した[324][325]。さらにダッドレーは1880年(明治13年)に神戸女子伝道学校(後の神戸女子神学校。前述した広島女学校保母師範科、神戸婦人伝道学校と共に聖和大学[† 26]の前身の一つ)を設立した[326]。
アメリカン・ボードの宣教師ジョン・カッティング・ベリーは前述のように兵庫国際病院(神戸万国病院。後の神戸海星病院[268])の医事監督を務めたほか、兵庫県病院(神戸病院[264]。後の神戸大学医学部附属病院[265])の支配頭に就任し、神戸・姫路・三田で精力的に医療活動を行った[327][328]。1873年(明治6年)1月には神戸病院において兵庫県史上初の人体解剖を行っている[329][330]。ベリーは1877年(明治10年)に神戸の監獄でコレラが大流行した際に兵庫県の要請を受けて監獄内に立ち入り、監獄内の不衛生な環境や囚人に対する非人道的な扱いを目にした。ベリーは兵庫県知事に監獄制度の改善を訴え、複数の宣教師がベリーに続いて監獄を視察し、制度改善案を日本政府に提出した[331]。
幼きイエズス会の修道女フィロメナ・バレンティン・アントニンは、1890年(明治23年)頃から居留地41番地の女子教育院で孤児の世話をした。アントニンの活動は太平洋戦争終結後まで続き、生涯に世話をした孤児は数百人に上った[332]。
居留外国人の墓地
편집居留外国人のための墓地は初め、江戸幕府によって小野浜新田(後の神戸市中央区浜辺通6丁目)に用意された[† 27][337]。墓地の管理は居留地会議行事局が行い、返還後は神戸市へ移管された[337]。
居留地返還後の1899年(明治32年)、神戸市は小野浜外国人墓地が飽和状態になったことへの対策として、葺合村春日野(後の神戸市灘区篭池通4丁目)に墓地を増設した(春日野外国人墓地)[337]。しかし同墓地もやがて飽和状態となり、神戸市は中央区にある再度山で墓地の建設を開始した。この新たな墓地(神戸市立外国人墓地)は第二次世界大戦による中断を挟んで1952年(昭和27年)に完成し、まず同年に小野浜新田の墓地が、次いで1961年(昭和36年)に春日野の墓地が移転された[337]。
周辺地域に与えた影響
편집神戸外国人居留地は貿易の拠点、西洋文化の入り口として栄え、周辺地域に経済的・文化的影響を与えた[6]。
開港前、周辺地域における交易の中心は兵庫津であり、兵庫津を中心に市街地が形成されていた[338]。しかし兵庫開港によって居留地周辺の経済活動が活発となり、新たな市街地が形成されていった[† 28]。そして1890年代初めには居留地周辺と兵庫津周辺の市街地は一続きの市街地を形成するようになった[52]。なお前述のように、兵庫開港においては兵庫津ではなく神戸村の海岸に建設された新たな港が外国に開放された[1]が、この港は1892年(明治25年)に勅令により神戸港とされ[16]、さらに同年神戸港の港域は拡大され兵庫津を含むようになった[22][23]。
文化面ではまず食生活への影響が挙げられる。前述のように神戸外国人居留地周辺では1869年(明治元年/2年)に日本人経営の牛肉料理屋「関門月下亭」が開店し[178]1871年(明治3年/4年)に日本人経営の牛肉店である大井肉店と森谷商店が開店[178]するなど、開港後間もない頃から日本人が業として牛肉を取り扱い、食するようになった。同じ時期に牛乳やパンを食する習慣も広まった[339]。建築の面では1873年(明治6年)に兵庫県が居留地近辺の市街地について洋風のデザインを採用するよう奨励する政策を打ち出し、居留地返還後に実際に建築物の洋風化が進むようになった[340]。スポーツの面では前述のように、内外人公園で居留外国人がラグビー・テニスなどに興じている姿を日本人が目にしたことでそれらの競技が周辺に普及するきっかけが生まれたと評価されている[231]。宗教の面ではキリスト教徒が増加した[341]。福原遊郭は、居留地の造成にあたった柴田剛中が「開港によって軍艦や商船が渡来し、水夫その他の軽輩のものが出入りするので遊女屋がなくては不取締である」と外国人向けの遊郭の建設を上申したことにより[342]、1868年(慶応4年/明治元年)に雑居地の外側に当たる宇治川の河口に設置され[343]、1870年(明治2年/3年)に一帯が鉄道の停車場建設用地に選定されたことを受け湊川堤の東、西国街道の北(新福原)に移転した[344]。福原遊郭は外国人の顧客を抱え、遊郭内には和洋折衷の建物も存在した[345]。
神戸外国人居留地が存在したことで神戸市はモダンでハイカラ、エキゾチックな雰囲気をもち[346]、ベンチャー精神に富んだ[346]、外国人に対し受容的[347]な都市として発展したと評価されている。さらに前述のように、雑居地において日本人が外国人を身近に接しながら暮らし、「生活レベルでの国際交流」が行われたことは、日本人と外国人が共生する「多民族・多文化共生都市」としての神戸市の原型を形成したと評価されている[149][† 29]。
他の外国人居留地との比較
편집居留地の面積(居住面積)を比較すると、横浜・長崎に次ぐ3番目で、横浜の約7分の1、長崎の約2分の1ほどである。ただし厳密には横浜は2つ(横浜(関内)・山手)、長崎は8つ(大浦・下松・梅ヶ崎・出島・新地・広馬場・東山手・南山手)の居留地の集まりである。横浜については横浜(関内)(129374坪)・山手(218823坪)ともに単独でも神戸の面積を上回っているが、長崎については最も広い南山手(44140坪)でも単独では神戸を下回る。雑居地の面積(居住面積)は横浜・築地に次ぐ3番目である[140]。
神戸では居留地が雑居地よりも広いが、築地と函館では逆に雑居地が居留地よりも広い。その要因としてはまず築地の場合、そもそも居留地が通商・貿易のための居住地であるところ、近在する貿易拠点である横浜ではなく築地に敢えて住もうとする商人が少なかった上に、勤務地に近い雑居地に住みたいという外交官やお雇い外国人が数多くいたことが挙げられる[349]。また、函館では居留地に設定された土地の条件が悪かったためにほとんどの居留外国人が雑居地に居住した[350]。
居留外国人数を見ると、居留地の面積が神戸よりも広い横浜は1893年(明治26年)の時点で4946人[351]、長崎は明治元年(1868/1869年)の時点で938人[352]、居留地が返還された1899年の時点では1711人である[353]。築地は神戸に次ぐ規模をもち、雑居地の面積では神戸を上回っていたが、居留地および雑居地の外における不正居住が横行し、居留地および雑居地における外国人数は1871年(明治4年)9月の時点で72人、1877年(明治10年)の時点で97人にとどまった[354]。
- 各居留地の面積 (1885年(明治18年)末)
居留地名 | 横浜 | 長崎 | 函館 | 築地 | 神戸 | 川口 |
---|---|---|---|---|---|---|
居留地面積(居住地のみ)[140] | 348197坪[† 30] | 105787坪[† 31] | 1730坪 | 26162坪 | 49645坪 | 7747坪 |
雑居地面積(居住地のみ)[140] | 36216坪 | 2973坪 | 13216坪 | 33323坪 | 26756坪 | 3578坪 |
神戸と横浜は、共に明治における対外的な窓口として発展した[355]。しかし神戸では日本側と外国側との関係が概ね良好であったと評価されている[5]のに対し、横浜では日本人商人が不平等な商慣行に抗議して外国商人との取引をボイコットする騒動(内外商紛議)が毎年のように発生するなど、日本人と外国人の関係が最も険悪であったとされる[356]。このような差が生じた要因としては、神戸では開港が横浜よりも8年あまり遅れたため、その間に日本で活動する悪質な外国商人が淘汰され、さらに日本人と外国人が互いについて理解を深める時間が得られたという「後発者のメリット」が指摘されている[357][358]。
一方、開港場が決まった経緯では神戸と横浜の間に共通点がある。前述のように江戸幕府は安政五カ国条約において取り決めた「兵庫開港」について、兵庫津ではなく後の神戸港を外国に開放した[1]。横浜居留地に関しても同様の動きがあり、江戸幕府は「神奈川開港」について神奈川宿ではなく当時寒村であった横浜村を開放した[359]。「兵庫開港」では外交上のトラブルは生じなかったが、「神奈川開港」では江戸幕府が神奈川宿の開放を強く求める外国側を押し切って横浜村の整備を進め、結果的に横浜村近辺のほうが神奈川宿近辺よりも水深が深く港に適した地理的条件を備えていることが判明したため外国側が江戸幕府の決定を追認したという経緯がある[360]。
ギャラリー
편집脚注
편집注釈
편집- ↑ 1867年1月10日(慶応2年12月5日)に江戸幕府第15代征夷大将軍に就任した徳川慶喜は2度にわたって兵庫開港の勅許を要請したがいずれも却下され、慶喜自身が参内して開催を要求した朝議を経てようやく勅許を得ることができた[13]。
- ↑ 『神戸市史 本編総説』には「外人嫌悪の思想、邦人に蔓延し居たりし当時」という記述が見られる[17]。
- ↑ なお、兵庫開港から間もない1868年2月4日(慶応4年1月11日)、西宮へ向けて西国街道を移動中であった備前藩兵が居留地にほど近い三宮神社前において隊列を横切った外国人(イギリス公使護衛隊員2名とフランス水兵2名)に向けて発砲し負傷させる事件(神戸事件)が発生している。この事件は明治政府にとって初の外交事件となった[19]。
- ↑ 당시의 인구는 효고 향 주변이 약 2만 명,[17] 고베 촌이 약 3,600명[20]이었다.
- ↑ 에도 막부의 효고 봉행으로 거류지 조성을 담당한 시바타 다케나카는 六甲山地の北側に西国街道の迂回路を設けることを計画した。これは西国街道が居留地の北端と接していたため、街道において日本人と外国人との衝突が起こることを避けるためであった[24]。工事は大阪谷町代官の斎藤六蔵らが担当し、迂回路のルートは菟原郡石屋川と明石大蔵谷で西国街道から分岐し、その間を杣谷・摩耶山・東小部村・藍那村・白川村を経由して結ぶというものに決まった[25]。迂回路は開港までに完成したが、開港後に明治政府が居留地付近を迂回する道を新たに建設したことに伴い廃止された(一部は「徳川道」と呼ばれる登山道として存続)[26]。
- ↑ 競売は造成工事の進行に合わせて、1868年9月10日(慶応4年7月24日)から1873年(明治6年)2月7日にかけ4度にわたって行われた[38][39]。最低落札価格は土地1坪につき金2両(2円)で、当時の居留地周辺の土地が1坪12銭5厘であったのに比べて高額であった[40]。実際には最低価格よりもさらに高額で落札されるケースもあり、例えばメインストリートであった京町筋に面する11番地は8円6銭でグラバー商会によって落札されている[40]。落札者を国別にみると、イギリスが全区画の半数を超える64区画を落札しており、以下ドイツ(23区画)、オランダ(15区画)、アメリカ(11区画)、フランス(11区画)、イタリア(1区画)となっている(残りの1区画は行事局(行司局とも表記、居留地自治における執行機関。後述。)が落札)[41][42]。
- ↑ 神戸外国人居留地での舞踏会に続き県会議事堂などでも舞踏会は開かれた。東京も同様であるがそれ以上に関西の名士たちは舞踏会に招待されたはいいが西洋式のダンスなど見たこともなくどのように踊ればいいのか戸惑い頭を抱え込んだ。神戸外国人居留地に住む外国人と関西の名士達を中心とする舞踏会は東京の鹿鳴館と同じく、関西における近代化の象徴でもあった[59]。
- ↑ 神戸国際委員会は太平洋戦争中に一時解散したが終戦後再結成され、関西国際委員会として関西在住の外国人のための活動を行っている[63]。
- ↑ 政府内では居留地内の永代借地権を土地所有権に切り替える案も浮上したが、従来通り外国人による土地の所有を認めるべきではないとする意見も出て折り合いがつかなかった[65]。
- ↑ もともと日本側は、領事裁判権の存在を理由に永代借地の上に建つ家屋には課税できないという方針をとっていたが、居留地返還によって領事裁判権が撤廃されたため、課税が可能になったと判断した[66]。
- ↑ 1983年(昭和58年)、旧居留地は神戸市都市景観条例に基づく「都市景観形成地域」に指定されている[80]。
- ↑ なお、居留地の自治権拡大を巡って1870年1月(明治2年11月/12月)に居留地の借地人が集会を開き、「大阪兵庫外国人居留地約定書」で認められた地税・警察税以外の課税権を獲得して居留地の運営費用を確保し、条例の制定・執行権を獲得して居留地内の違法建築や違法営業などの問題に対処するべきであるという内容の決議を行ったことがある。借地人たちは決議内容を書簡にして各国公使に送付したが、ほとんどの国の公使に黙殺され、唯一回答を行ったドイツ公使も課税権については新たな課税がなくとも既に整備されたインフラを維持するための費用は捻出でき、条例の制定・執行権については領事が有する領事裁判権と衝突する可能性があるとして決議に反対した。こうして決議の内容が自治に反映されることはなかった[82][83]。
- ↑ 居留地内では1886年(明治19年)に起こったノルマントン号事件に関する査問会および予審が行われた(後述)ほか、居留地周辺の住民が居留地の借地人とのトラブルに巻き込まれ、領事裁判権適用を巡る当事者となることもあった[90]
- ↑ ただし西洋文明を色濃く反映した街並みに否定的な感想を抱く者もいた。ロシアの哲学者ラファエル・フォン・ケーベルは「至るところにヨーロッパやアメリカの罪悪と愚味の猿真似を見る」と評し[103]、イギリスの小説家ラドヤード・キップリングは「洗練されないアメリカ」と評した[104]。
- ↑ 南北の通りの名称は西から西町・明石町・播磨町・浪花町・京町・江戸町・伊藤町・東町、東西の通りは北から裏町・北町・仲町・前町・海岸通。道路に接する土地には道路の名前にちなんだ町名(京町、江戸町、前町など)がつけられた。ただしそのような町名が公式に使用されるようになったのは居留地返還後のことである[105]。
- ↑ 1975年(昭和50年)、神戸市が雨水排水のための下水道(明石町雨水幹線)敷設工事を行っていたところ、旧居留地の明石町、伊藤町付近の地中からでレンガ製の下水道が発見され、居留地時代の下水道がおよそ100年を経てなお機能していたことが明らかとなった[110]。
- ↑ ちなみに、(旧)居留地の外にガスが供給されるようになったのは1901年(明治34年)以降である[112][113]。
- ↑ ジョサイア・コンドルの指導を受けたのは、明治12年(1879年)から明治19年(1886年)までの卒業生である[124]。
- ↑ 兵庫開港以前にも長崎でラムネが製造・販売された記録があるが、大規模には流通しなかった[171]。
- ↑ 가 나 다 라 雑居地内。
- ↑ 가 나 1871年(明治3年/4年)、もともとは神戸村の墓地で居留地域外とされていた場所に作られ、外国人に貸与された公園。外国人公園とも呼ばれた。居留地の設計に当たったジョン・ウイリアム・ハートが1870年7月(明治3年6月/7月)に作成した居留地の地図には「PUBLIC GARDEN」と記されている。居留地返還後に前町公園と改称し、1903年(明治36年)に廃止された(土居2007、48-49頁・山下1998、62頁。)。
- ↑ この体育館は内外人公園(後の東遊園地)の完成後、1877年(明治10年)に同公園に移転した[214]。移転した体育館は1927年(昭和2年)に新築された[215]後、1945年(昭和20年)、神戸大空襲により焼失した[216]。
- ↑ 当時の日本スポーツ界にボランティアという概念は存在せず、スポーツイベントにおいて初めてボランティアが公募され組織的に活動したのは、約1世紀後の1985年夏季ユニバーシアードにおいてである[222]。
- ↑ 居留地の設計に当たったジョン・ウイリアム・ハートが1870年7月(明治3年6月/7月)に作成した居留地の地図には、旧生田川右岸の土手下の湿地帯に「RESERVED FOR RECREATION GROUND(レクリエーショングラウンド予定地)」と記載されている。このことは後に居留外国人がグラウンド設置を要求する根拠となった[225]。
- ↑ 1945年(昭和20年)、空襲により焼失。1998年(平成10年)、下山手通2丁目に再建された[259]。
- ↑ 가 나 다 聖和大学は2009年(平成21年)4月1日に学校法人関西学院と合併した(“学校法人関西学院と合併しました。” (일본어). 関西学院大学. 2010年4月28日에 확인함. )。
- ↑ 小野浜新田の墓地が設けられたのは(旧)生田川河口[333]左岸[334]堤防下の砂地[333][335]で、地面を深く掘ると水が出てくるため浅く掘って埋葬せざるを得なかったが、そのせいで洪水などの被害に遭いやすかった[333][336]。
- ↑ 居留地東北部に外国人商人が経営する工場が、西部の海岸沿いに日本人が経営する商店や銀行が建設され、その周囲に住宅街が形成された[52]。
- ↑ これについて文学者の今城八州子は、神戸は古来より「異国の人が移動する際の通り道に位置していたため一端の異文化理解の素地はあったと言える」と述べている[348]。
- ↑ 2つの居留地(横浜(関内)・山手)の合計。
- ↑ 8つの居留地(大浦・下松・梅ヶ崎・出島・新地・広馬場・東山手・南山手)の合計。
出典
편집- ↑ 가 나 다 라 마 바 사 아 新修神戸市史 歴史編3、912頁。
- ↑ 가 나 다 神木・崎山1993、59頁。
- ↑ 가 나 神戸外国人居留地研究会(編)1999、17頁。
- ↑ 가 나 다 라 마 神戸外国人居留地研究会(編)2005、20頁。
- ↑ 가 나 다 神戸外国人居留地研究会(編)2011、26頁。
- ↑ 가 나 新修神戸市史 歴史編4、24-40頁。
- ↑ 楠本2007、29-30頁。
- ↑ 楠本2007、33-36頁。
- ↑ 楠本2007、36頁。
- ↑ 新修神戸市史 歴史編3、905頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、14頁。
- ↑ 土居2007、15-16頁。
- ↑ 楠本2007、36-37頁。
- ↑ 土居2007、14-15頁。
- ↑ 土居2007、15頁。
- ↑ 가 나 “神戸港の歴史” (일본어). 神戸市. 2009年4月28日에 확인함.
- ↑ 가 나 楠本2007、38頁。
- ↑ 楠本2007、38-39頁。
- ↑ 土居2007、21-23頁。
- ↑ 楠本2007、41頁。
- ↑ 楠本2007、39頁。
- ↑ 가 나 新修神戸市史 歴史編3、912-913頁。
- ↑ 가 나 前嶋他1989、28頁。
- ↑ 新修神戸市史 歴史編3、869-870頁。
- ↑ 新修神戸市史 歴史編3、870-872頁。
- ↑ 新修神戸市史 歴史編3、873頁。
- ↑ 가 나 山下1998、44-45頁。
- ↑ 新修神戸市史 歴史編4、21頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、14・23頁。
- ↑ 土居2007、16-17頁。
- ↑ 楠本2007、42・115頁。
- ↑ 土居2007、19-20頁。
- ↑ 楠本2007、44・115頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、16-17頁。
- ↑ 土居2007、32-34頁。
- ↑ 가 나 土居2007、44頁。
- ↑ 가 나 神戸外国人居留地研究会(編)2005、41-42頁。
- ↑ 가 나 神戸外国人居留地研究会(編)2005、22頁。
- ↑ 가 나 土居2007、35頁。
- ↑ 가 나 다 神木・崎山1993、35頁。
- ↑ 土居2007、35-36頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、22-23頁。
- ↑ 가 나 神戸外国人居留地研究会(編)2005、21頁。
- ↑ 가 나 神木・崎山1993、37頁。
- ↑ 가 나 神戸外国人居留地研究会(編)2005、52-53頁。
- ↑ 가 나 神木・崎山1993、85頁。
- ↑ 가 나 山下1998、60頁。
- ↑ 가 나 土居2007、29-30頁。
- ↑ 가 나 다 神戸外国人居留地研究会(編)2005、24頁。
- ↑ 가 나 土居2007、31-32頁。
- ↑ 가 나 다 新修神戸市史 行政編3、4頁。
- ↑ 가 나 다 라 新修神戸市史 歴史編4、24頁。
- ↑ 楠本2007、278頁。
- ↑ 가 나 新修神戸市史 行政編3、5頁。
- ↑ 楠本2007、273頁。
- ↑ 鳥居1982、172-175頁。
- ↑ 楠本2007、273-274頁。
- ↑ 楠本2007、140-142頁。
- ↑ 楠本2007、140-151。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、38・240頁。
- ↑ 神木・崎山1993、44-45頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、42頁。
- ↑ 谷口1986、17-18頁。
- ↑ 土居2007、108-110・113-114頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、42頁。
- ↑ 山下1998、55頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、43頁。
- ↑ 土居2007、117-119頁。
- ↑ 神木・崎山1993、48頁。
- ↑ 土居2007、117-119頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、43-44頁。
- ↑ 土居2007、119-123頁。
- ↑ 神木・崎山1993、48-49頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、41-44頁。
- ↑ 神木・崎山1993、49頁。
- ↑ 가 나 “居留地の返還と繁栄”. 《神戸旧居留地》 (일본어). 旧居留地連絡協議会. 2013年1月13日에 확인함.
- ↑ “神戸旧居留地コース”. 《ひょうごツーリズムガイド》 (일본어). ひょうごツーリズム協会. 2013年1月13日에 확인함.
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、102頁。
- ↑ 가 나 土居2007、99-100頁。
- ↑ 가 나 다 “第二次世界大戦と戦後”. 《神戸旧居留地》 (일본어). 旧居留地連絡協議会. 2013年1月13日에 확인함.
- ↑ 가 나 다 “旧居留地物語 旧居留地の概要”. 《神戸建築物語》 (일본어). 神戸市. 2012年12月24日. 2013年1月13日에 확인함.
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、61-63頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、39-41頁。
- ↑ 楠本2007、64-65頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、56頁。
- ↑ 가 나 神戸外国人居留地研究会(編)2005、56-57頁。
- ↑ 가 나 다 神戸外国人居留地研究会(編)2005、58頁。
- ↑ 神木・崎山1993、37頁。
- ↑ 가 나 土居2007、130頁。
- ↑ 楠本2007、132・157-158頁。
- ↑ 神木・崎山1993、87-88頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2011、268頁。
- ↑ 土居2007、39頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、65-67頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、42-43頁。
- ↑ 楠本2007、65頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、210-213頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、210-213頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、213-214・228-230頁。
- ↑ 楠本2007、65-68頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、214-215頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2011、295-296頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2011、119頁。
- ↑ コータッツィ1988、268頁。
- ↑ 土居2007、44-46頁。
- ↑ 神木・崎山1993、73-74頁。
- ↑ 가 나 다 라 마 神戸外国人居留地研究会(編)2005、19頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、19頁。
- ↑ 土居2007、34頁。
- ↑ 山下1998、61頁。
- ↑ 土居2007、79頁。
- ↑ 가 나 前嶋他1989、31頁。
- ↑ 呉(編)2006、132頁。
- ↑ 가 나 土居2007、75-79頁。
- ↑ 神木・崎山1993、108・113頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、78-79頁。
- ↑ 神木・崎山1993、103頁。
- ↑ 神木・崎山1993、114-115頁。
- ↑ 神木・崎山1993、114頁。
- ↑ 神木・崎山1993、115-116頁。
- ↑ 神木・崎山1993、119頁。
- ↑ 神木・崎山1993、99頁。
- ↑ 神木・崎山1993、96-98頁。
- ↑ 가 나 日本産業技術史学会(編)2007、414頁。
- ↑ 神木・崎山1993、98-99頁。
- ↑ 土居2007、64頁。
- ↑ 土居2007、64-65頁。
- ↑ 土居2007、65-66頁。
- ↑ 土居2007、65頁。
- ↑ 土居2007、66-67頁。
- ↑ “オリエンタルホテルの歴史” (일본어). オリエンタルホテル. 2010年4月28日에 확인함.
- ↑ 가 나 神戸外国人居留地研究会(編)2005、17-19頁。
- ↑ 神木・崎山1993、195-196頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、19-20頁。
- ↑ 土居2007、48・50-52頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、88-89頁。
- ↑ 神木・崎山1993、195-196頁。
- ↑ 土居2007、29頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、24-25頁。
- ↑ 가 나 다 라 神木・崎山1993、74頁。
- ↑ 神木・崎山1993、65頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、164頁。
- ↑ 가 나 土居2007、96頁。
- ↑ 가 나 神戸外国人居留地研究会(編)2005、26-27頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、55頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、25頁。
- ↑ 楠本2007、130-131頁。
- ↑ “南京町の歴史”. 《南京町大全》 (일본어). 南京町商店街振興組合. 2013年1月14日에 확인함.
- ↑ 가 나 神戸外国人居留地研究会(編)2011、28頁。
- ↑ 土居2007、52-53頁。
- ↑ 草山1984、234-236頁。
- ↑ 土居2007、53-54頁。
- ↑ 草山1984、236-239頁。
- ↑ 神木・崎山1993、68頁。
- ↑ 神木・崎山1993、70頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、48頁。
- ↑ 山下1998、52頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、26-28頁。
- ↑ 土居2007、96-97頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、48-49頁。
- ↑ 神木・崎山1993、84-85頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、28頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、50-51頁。
- ↑ 神木・崎山1993、147頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、31-34頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、55頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、28-30頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、51-52頁。
- ↑ 神木・崎山1993、217-218頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、52頁。
- ↑ 谷口1986、64-66頁。
- ↑ 神木・崎山1993、152頁。
- ↑ 谷口1986、61頁。
- ↑ 高木1996、57頁。
- ↑ 가 나 神戸外国人居留地研究会(編)1999、91頁。
- ↑ 神木・崎山1993、206頁。
- ↑ 神木・崎山1993、206-207頁。
- ↑ 가 나 다 라 마 바 사 神木・崎山1993、208頁。
- ↑ 神木・崎山1993、207-208頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、178頁。
- ↑ 呉(編)2006、101頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、183-184頁。
- ↑ 村上1987、69頁。
- ↑ 가 나 村上1987、70頁。
- ↑ 村上1987、70-71頁。
- ↑ 村上1987、71頁。
- ↑ 谷口1986、105頁。
- ↑ 土居2007、83頁。
- ↑ 土居2007、83-84頁。
- ↑ 土居2007、84頁。
- ↑ 土居2007、84-85頁。
- ↑ 谷口1986、114頁。
- ↑ “カトリック神戸中央教会の沿革” (일본어). カトリック神戸中央教会. 2010年4月28日에 확인함.
- ↑ ジャパン・クロニクル社(編)1980、87-88頁。
- ↑ 土居2007、86頁。
- ↑ “神戸ユニオン教会の歩み”. 《私たちの教会について》 (일본어). 神戸ユニオン教会. 2008년 11월 20일에 원본 문서에서 보존된 문서. 2010年4月28日에 확인함.
- ↑ 土居2007、87-88頁。
- ↑ 가 나 ジャパン・クロニクル社(編)1980、91頁。
- ↑ ジャパン・クロニクル社(編)1980、105頁。
- ↑ 谷岡・佐々木2001、211-226頁。
- ↑ 谷岡・佐々木2001、217-218頁。
- ↑ 立川1996、124-125頁。
- ↑ 立川1996、131-133頁。
- ↑ 立川1997、141-164頁。
- ↑ 立川1997、175-184頁。
- ↑ 立川1997、184-190頁。
- ↑ 가 나 神戸外国人居留地研究会(編)1999、108頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、107-108頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、109頁。
- ↑ 土居2007、60-61頁。
- ↑ 土居2007、56頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、110-111頁。
- ↑ ジャパン・クロニクル社(編)1980、136頁。
- ↑ 楠本2007、134-135頁。
- ↑ 棚田他1984、31頁。
- ↑ 楠本2007、135頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、111頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、113頁。
- ↑ 高木2006、213-215頁。
- ↑ 高木2006、210-211・215頁。
- ↑ 楠本2007、134頁。
- ↑ 川西・野川2006、102-103頁。
- ↑ 高木2006、211-212頁。
- ↑ 가 나 立川1997、190-191頁。
- ↑ 立川1997、198頁。
- ↑ 立川1997、193頁。
- ↑ 土居2007、47頁。
- ↑ 土居2007、47-48頁。
- ↑ 神木・崎山1993、115-116頁。
- ↑ 高木2006、216頁。
- ↑ 가 나 다 土居2007、48頁。
- ↑ 高木2006、220頁。
- ↑ 土居2007、72頁。
- ↑ 가 나 ジャパン・クロニクル社(編)1980、80頁。
- ↑ ジャパン・クロニクル社(編)1980、83頁。
- ↑ 谷口1986、30頁。
- ↑ ジャパン・クロニクル社(編)1980、84頁。
- ↑ 土居2007、73-74頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、156-157頁。
- ↑ 神木・崎山1993、166頁。
- ↑ 土居2007、72-74頁。
- ↑ 谷口1986、30頁。
- ↑ 谷口1986、31頁。
- ↑ 가 나 土居2007、92-93頁。
- ↑ ジャパン・クロニクル社(編)1980、139-141頁。
- ↑ 土居2007、65頁。
- ↑ ジャパン・クロニクル社(編)1980、138-139・141頁。
- ↑ 가 나 ジャパン・クロニクル社(編)1980、141頁。
- ↑ 土居2007、66頁。
- ↑ 土居2007、93頁。
- ↑ “History” (英語). Kobe Club. 2010年4月28日에 확인함.
- ↑ 呉(編)2006、52-54頁。
- ↑ 神戸華僑華人研究会(編)2004、64頁。
- ↑ 中華会館(編)2000、246頁。
- ↑ 鴻山1979、117-118頁。
- ↑ 鴻山1979、118頁。
- ↑ 鴻山1979、119頁。
- ↑ 鴻山1979、120-121頁。
- ↑ 中華会館(編)2000、300-301頁。
- ↑ 中華会館(編)2000、325頁。
- ↑ 張2005、165-166頁。
- ↑ 가 나 田中2012、29-30頁
- ↑ ジャパン・クロニクル社(編)1980、148頁。
- ↑ 가 나 田中2012、39-40頁。
- ↑ 가 나 “医学部・医学部附属病院の前身(1869年-)”. 《神戸大学の歴史》 (일본어). 神戸大学. 2010年4月28日에 확인함.
- ↑ 田中2012、27頁。
- ↑ 田中2012、30頁
- ↑ 가 나 「神戸と聖書」編集委員会(編)2001、63頁。
- ↑ 田中2012、30-31頁
- ↑ 田中2012、33-35頁
- ↑ ジャパン・クロニクル社(編)1980、143頁。
- ↑ 前嶋他1989、27頁を参照
- ↑ 谷口1986、62-63頁。
- ↑ 神木・崎山1993、152頁。
- ↑ 土居2007、42-43頁。
- ↑ 土居2007、43頁。
- ↑ 土居2007、43頁。
- ↑ 高木1996、72頁。
- ↑ 高木1996、72頁。
- ↑ 土居2007、43-44頁。
- ↑ 高木1996、70-71頁。
- ↑ 高木2006、58-59頁。
- ↑ 高木2006、66頁。
- ↑ 棚田他1984、47頁。
- ↑ 高木2006、52-54頁。
- ↑ 棚田他1984、50-53頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、107-111頁。
- ↑ 高木2006、16-18頁。
- ↑ 高木2006、18-20頁。
- ↑ 土居2007、68頁。
- ↑ 棚田他1984、47頁。
- ↑ 神木・崎山1993、141頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、35頁。
- ↑ 谷口1986、146-147頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、56頁。
- ↑ 谷口1986、147-150頁。
- ↑ 神木・崎山1993、143-144頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、36頁。
- ↑ 谷口1986、150-151頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、56-57頁。
- ↑ 神木・崎山1993、144-145頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、57頁。
- ↑ 神木・崎山1993、145頁。
- ↑ 神木・崎山1993、145-146頁。
- ↑ 神木・崎山1993、146頁。
- ↑ 神木・崎山1993、147頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、58頁。
- ↑ 神木・崎山1993、147-148頁。
- ↑ 神木・崎山1993、148-149頁。
- ↑ 神木・崎山1993、149頁。
- ↑ 神木・崎山1993、149-150頁。
- ↑ 神木・崎山1993、150-151頁。
- ↑ 神木・崎山1993、164-165頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、156-157頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、156-160頁。
- ↑ 가 나 神戸外国人居留地研究会(編)2005、160頁。
- ↑ 神木・崎山1993、172-173頁。
- ↑ 神木・崎山1993、175頁。
- ↑ 가 나 「神戸と聖書」編集委員会(編)2001、39頁。
- ↑ “パルモア学院の歴史” (일본어). パルモア学院. 2010年4月28日에 확인함.
- ↑ “学院の歴史” (일본어). 啓明学院. 2010年4月28日에 확인함.
- ↑ 가 나 “聖和大学、関西学院の合併へ向けての検討開始について” (일본어). 関西学院大学. 2010年4月28日에 확인함.
- ↑ 谷口1986、119-126頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、153-154頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、73-74頁。
- ↑ 竹中2000、23・53頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、152頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、72頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、153頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)1999、72-73頁。
- ↑ ジャパン・クロニクル社(編)1980、97頁。
- ↑ 谷口1986、119・123-125・127-128頁。
- ↑ 가 나 다 谷口1986、13頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、242頁。
- ↑ 土居2007、81頁。
- ↑ 土居2007、80-82頁。
- ↑ 가 나 다 라 “外国人墓地”. 《神戸を知る》 (일본어). 神戸市. 2011年3月3日. 2013年1月17日에 확인함.
- ↑ 新修神戸市史 歴史編4、24-25頁。
- ↑ 新修神戸市史 歴史編4、33頁。
- ↑ 新修神戸市史 歴史編4、34頁。
- ↑ 新修神戸市史 歴史編4、36-38頁。
- ↑ 人見2008、90頁。
- ↑ 加藤2005、200-201頁。
- ↑ 加藤2005、201頁。
- ↑ 添田2010、79-80頁。
- ↑ 가 나 神戸外国人居留地研究会(編)2011、35頁。
- ↑ 山下1998、65頁。
- ↑ 今城2008、16頁。
- ↑ 神木・崎山1993、76頁。
- ↑ 神木・崎山1993、75・77頁。
- ↑ 横浜開港資料館・横浜開港資料普及協会(編)1998、31頁。
- ↑ 重藤1968、202頁。
- ↑ 蓑川裕之. “世界遺産への旅 [3]旧グラバー住宅”. 《長崎新聞》 (일본어). 長崎新聞社. 2013年2月24日에 확인함.
- ↑ 川崎2002、130-131頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2011、293頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2011、295-296頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2005、144-145頁。
- ↑ 神戸外国人居留地研究会(編)2011、294頁。
- ↑ 神木・崎山1993、57頁。
- ↑ 神木・崎山1993、57-58頁。
参考文献
편집- 加藤政洋 (2005). 《花街 異空間の都市史》. 朝日選書. 朝日新聞出版. ISBN 4-02-259885-9. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 神木哲男・崎山昌広(編・著) (1993). 《神戸居留地の3/4世紀 ハイカラな街のルーツ》. 神戸新聞総合出版センター. ISBN 4-87521-476-6. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 川崎晴朗 (2002). 《築地外国人居留地 明治時代の東京にあった「外国」》. 雄松堂書店. ISBN 4-8419-0308-9. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 川西正志・野川春夫(編・著) (2006). 《生涯スポーツ実践論 生涯スポーツを学ぶ人たちに》. 体育・スポーツ・健康科学テキストブックシリーズ. 市村出版. ISBN 4-902109-08-5. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 草山巌 (1984). 《兵庫警察の誕生 幕末から明治の世相》. 慶應通信. ISBN 4-7664-0304-5. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 楠本利夫 (2007). 《増補 国際都市神戸の系譜》. 公人の友社. ISBN 4-87555-514-8. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 鴻山俊雄 (1979). 《神戸大阪の華僑 在日華僑百年史》. 華僑問題研究所. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- ヒュー・コータッツィ (1988). 《維新の港の英人たち》. 번역 中須賀哲朗. 中央公論社. ISBN 978-4-12-001713-1. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 重藤威夫 (1968). 《長崎居留地 一つの日本近代史》. 講談社現代新書143. 講談社. ISBN 4-06-115543-1. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 高木応光 (1996). 《This is the MAN ハイカラ神戸を創った男A・C・シムの市民生活、スポーツ、ボランティア活動》. 兵庫県ラグビー協会・兵庫県高体連ラグビー部. ISBN 4-343-00362-0. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 高木応光 (2006). 《神戸スポーツはじめ物語》. 神戸新聞総合出版センター. ISBN 4-343-00362-0. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 竹中正夫 (2000). 《ゆくてはるかに 神戸女子神学校物語》. 教文館. ISBN 4-7642-6549-4. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 田中智子 (2012). 《近代日本高等教育体制の黎明 交錯する地域と国とキリスト教界》. 思文閣出版. ISBN 4-7842-1618-9. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 棚田真輔・表孟宏・神吉賢一 (1984). 《プレイランド六甲山史》. 出版科学総合研究所. ISBN 4-87969-005-8. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 谷口利一 (1986). 《使徒たちよ眠れ 神戸外国人墓地物語》. 神戸新聞出版センター. ISBN 4-87521-447-2. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 土居晴夫 (2007). 《神戸居留地史話》. リーブル出版. ISBN 4-947727-92-6. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 鳥居幸雄 (1982). 《神戸港1500年 ここに見る日本の港の源流》. 海文堂. ISBN 4-303-63652-5. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 前嶋雅光・蓮池義治・中山正太郎 (1989). 《兵庫県の百年》. 山川出版社. ISBN 4-634-27280-6. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 村上和子 (1987). 《洋菓子天国Kobe》. 保育社. ISBN 4-586-50745-4. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 山下尚志 (1998). 《神戸港と神戸外人居留地》. 近代文芸社. ISBN 4-7733-6218-9. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 神戸外国人居留地研究会(編), 편집. (1999). 《居留地の窓から》. ジュンク堂書店. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 神戸外国人居留地研究会(編), 편집. (2005). 《神戸と居留地 多文化共生都市の原像》. 神戸新聞総合出版センター. ISBN 4-343-00315-9. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 神戸外国人居留地研究会(編), 편집. (2011). 《居留地の街から 近代神戸の歴史探究》. 神戸新聞総合出版センター. ISBN 4-343-00656-5. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 神戸華僑華人研究会(編), 편집. (2004). 《神戸と華僑 この150年の歩み》. 神戸新聞総合出版センター. ISBN 4-343-00268-3. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 「神戸と聖書」編集委員会(編), 편집. (2001). 《神戸と聖書 神戸・阪神間の450年の歩み》. 神戸新聞総合出版センター. ISBN 4-343-00137-7. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 呉宏明(編), 편집. (2006). 《こうべ異国文化ものしり事典》. 神戸新聞総合出版センター. ISBN 4-343-00385-X. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- ジャパン・クロニクル社(編)・土居晴夫(解説), 편집. (1980). 《神戸外国人居留地》. 번역 堀博・小出石史郎. 神戸新聞出版センター. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 新修神戸市史編集委員会(編), 편집. (1989). 《新修神戸市史 歴史編3》. 神戸市. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 新修神戸市史編集委員会(編), 편집. (1989). 《新修神戸市史 歴史編4》. 神戸市. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 新修神戸市史編集委員会(編), 편집. (2005). 《新修神戸市史 行政編3》. 神戸市. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 中華会館(編), 편집. (2000). 《落地生根 神戸華僑と神阪中華会館の百年》. 研文出版. ISBN 4-87636-180-0. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 日本産業技術史学会(編), 편집. (2007). 《日本産業技術史事典》. 思文閣出版. ISBN 4-7842-1345-7. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 横浜開港資料館・横浜開港資料普及協会(編), 편집. (1998). 《図説横浜外国人居留地》. 有隣堂. ISBN 4-89660-143-2. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 今城八州子 (2008년 3월). “神戸外国人居留地に関する一考察 -異文化の出会う一場所として-”. 《神戸ファッション造形大学・神戸文化短期大学研究紀要》 (32): 15–28頁. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 添田仁 (2010년 3월). “神戸外国人居留地と福原遊女・新撰組” (PDF). 《海港都市研究》 (5): 75–87頁. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 立川健治 (1996년 9월). “神戸居留地における競馬(一)”. 《富山大学人文学部紀要》 (25): 123–145頁. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 立川健治 (1997년 3월). “神戸居留地における競馬(二)”. 《富山大学人文学部紀要》 (26): 141–213頁. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 谷岡史絵; 佐々木倫子 (2001년 9월). “神戸居留地における音楽” (PDF). 《神戸大学発達科学部研究紀要第9巻第1号》: 211–226頁. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말);
- 張玉玲 (2005년 3월). “日本華僑による文化提示とエスニック・アイデンティティの主張 -神戸華僑歴史博物館の考察を中心に-” (PDF). 《国際開発研究フォーラム》 (29): 153–171頁. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
- 人見佐知子 (2008년 3월). “開港場・神戸と明治初年の売春統制策” (PDF). 《海港都市研究》 (3): 89–99頁. 다음 글자 무시됨: ‘和書
’ (도움말)
関連項目
편집